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秀吉の死後、巧みな調略により仲間を増やし、政略により豊臣家の力を弱めて行き、ついに関が原の戦いで勝利を収め、征夷大将軍となる。
1605年、家康は将軍職を三男の秀忠に譲って世襲制を明確にした。また自分は大御所として、なおも実権を掌握し続けた。
武家諸法度の制定など、内政面での幕府体制を確立していった。だが、やはり江戸幕府を安泰なものにするには、豊臣家が目の上のたんこぶであったようだ。
家康は方広寺鐘銘問題で、豊臣家にインネンをふっかけて、戦争を開始する。この大阪夏の陣・冬の陣にて豊臣家を滅亡させる。その1年後に家康はこの世を去った。
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